ビートルズの都市伝説や謎/死亡説からフィリピン公演事件、レイモンドジョーンズまで全解説

ビートルズの都市伝説や謎/死亡説からフィリピン公演事件、レイモンドジョーンズまで全解説

ビートルズが活動を始めて60年以上が経ち、その間には様々な出来事がありました。

その中には、不思議なことや謎に包まれたエピソード、信じられないような噂話もあります。

ここでは、ビートルズにまつわる都市伝説をまとめてみました。

本当にあったビートルズ伝説

目次

レイモンド・ジョーンズは神の使いだったのか?

まずブライアン・エプスタインを忘れるべからず

デビュー前のビートルズは、活動拠点のリヴァプールやハンブルグでそれなりに人気があったかもしれませんが、歌や演奏が特別優れていたわけでもなく、世間に褒められるほどのずば抜けた才能があったと言えません。

ビートルズの成功を語る上では、音楽面についてはジョージ・マーティンの功績が大きいですが、無名のビートルズが世界に羽ばたくために尽力したブライアン・エプスタインも忘れてはなりません。

そんなブライアンとビートルズの出会いはどのようなものだったのか?両者を引き合わせた人物とは?

ビートルズ+ブライアン誕生の真相に迫ってみます。

レイモンドジョーンズという若者

リヴァプールで家具店を経営する資産家の長男として生まれたブライアン・エプスタインは、NEMSレコード店の経営を任されていました。

1961年10月28日、店に来た若者から、ドイツで発売されている“My Bonnie”という曲のレコードはないかと尋ねられました。そのレコードはトニー・シェリダンが歌い、ビートルズがバックを演奏している曲でしたが、ブライアンの店にはそんなレコードはありませんでした。

そのレコードを買いに来た若者の名前はレイモンド・ジョーンズ。ブライアンは彼からビートルズは地元のロック・グループであることを聞き、その存在を初めて知りました。

ビートルズに興味を持ったブライアンは、11月9日にレコード店の近所にあるキャヴァーン・クラブに行き、そこで初めてビートルズに出会いました。これが神話の概要です。

つじつまが合わないいくつかの疑問

レコードを探しに来た客と店員のやりとりは、レコード店では日常的に見られる光景でしょう。一般的な客の一人である若者の名前をブライアンがしっかり覚えていたことも不自然です。また、その若者に聞いて初めて知った無名のビートルズに会いたいという衝動に駆られたことや、実際にビートルズに会って一目惚れしたことも出来過ぎた話に思えます。

その一方で、ビートルズのメンバー達はブライアンのレコード店の常連で、キャヴァーン・クラブのステージの合間に頻繁に店に訪れていたとも言われています。当時のビートルズはしっかり不良だったので、店内でお行儀良くしているわけがなく、騒がしく目立っていたことでしょう。そうなってくるとブライアンがレイモンド・ジョーンズを通じてビートルズを初めて知ったという話には無理がありそうです。

また、ジョンの友人であるビル・ハリーがリヴァプールで発行していた音楽新聞「マージー・ビート」には、ハンブルグで活躍するビートルズの写真や記事が掲載されており、その新聞はNEMSレコード店でも売られていました。しかも同紙の音楽コラムを担当していたブライアンが、レコード店からほどない距離にあるキャヴァーン・クラブで演奏しているビートルズを知らないとは考え難いと言われています。

NEMSレコードでの出来事は、既にドイツの名門レコード会社と契約を結んでいたビートルズのスタートラインを鮮やかにするためにブライアンが作った神話なのでしょうか?

レイモンド・ジョーンズは実在したのか?

ビートルズとブライアンを繋げるキューピットの役割を担ったレイモンド・ジョーンズは、架空の人物とされたこともありました。しかし本人が名乗り出て、以下のようにインタビューで語っています。

・当時、小さな印刷工場で働いていて、工場の近くにあるキャヴァーン・クラブに入り浸っていた。そこで自分の好きなカール・パーキンスの曲を演奏するビートルズに夢中になった。

・ロック・グループでギターを担当していた義兄から、ビートルズがドイツで制作した“My Bonnie”というレコードの存在を聞いた。

・ブライアンが公表したビートルズとの出会いに関するエピソードの中で、自分の服装に対する発言を不愉快に思い、NEMSに抗議の手紙を書いたところ、ブライアン本人から謝罪を受けた。

・大勢の人の前に出るのは苦手だったので名乗り出なかった。

実話であり神話

ちなみにレイモンド・ジョーンズは実在し、また、そのインタビュー内容には整合性があります。

この人物があの日にレコード店に行き、ビートルズのレコードを買おうとした本人で間違いないとしたら、神話ではなく実話だったということです。

一方で、レイモンドというどこにでもいそうな若者から聞いたビートルズに、ブライアンが一夜でのめり込んだことは運命だったのか?それとも奇跡だったのか?それともブライアンのハートに火を点けたレイモンドは神の使いだったのか?

ビートルズの運命を変えたこの出来事には解明できない神話に近いものがありそうです。

ポールマッカートニーの隠し子説

不自然に避けられていた西ドイツ公演

メジャー・デビュー前のビートルズは旧西ドイツのハンブルグで度々ライブを行っていました。ドサ周りのようなものだったのかもしれませんが、彼等にとってハンブルグは思い出の場所であり、多くのファンがいる第二の故郷のようなものです。

しかし、世界的な人気者になった彼等が西ドイツでコンサートを行ったのは、メジャー・デビューから4年後の1966年6月で、日本公演とフィリピン公演を抱き合わせたツアーでした。

デビュー直後であればイギリス国内で足場固めを行い、重要視していたアメリカでのコンサートを優先することは理解できます。

世界的な人気グループとなってからはスウェーデン、フランス、デンマーク、オランダなどのヨーロッパ各国だけでなく、カナダ、オーストラリア、香港でもコンサートを行っていましたが、なぜか西ドイツだけが不自然に外されていました。

ドイツ語版の“ I Want to Hold Your Hand”や“She Loves You ”をリリースしたとはいえ、本来であれば一刻も早く第二の故郷である西ドイツを訪れるべきでした。訪れることができない理由があったのでしょうか?

ポールとエリカのハンブルグの恋

1960年8月から2か月間、ビートルズはハンブルグのインドラ・クラブなどで連日数時間のライブをこなしていました。

その時、ポールはエリカというウェイトレスと知り合い、恋仲になったそうです。

ビートルズはその後もリヴァプールとハンブルグを行き来する生活を続けましたが、1962年のハンブルグ巡業の時、ポールとエリカには肉体関係ができ、同年の12月にはエリカが女の子を出産しました。
※この時点で世間には公開されていません

ハンブルグ青少年課はエリカの意向通りにポールに対する実子認知を要求する法的手続きを始め、イギリスのドイツ領事はポールに対してドイツの裁判所に出廷するよう再三要求していたそうです。

もしハンブルグでコンサートを行うことになれば、確実に出廷を求められるでしょう。しかもポールに隠し子がいることが公になったら大スキャンダルになります。

エリカとの和解

1966年の西ドイツ公演は、ポールとエリカとの間で和解が成立したことで実現しました。

和解内容は、エリカはポールとの間に生まれた子供のことを口外しないと約束し、ポールは多額の養育費をエリカ側に払うという条件だったと言われています。

そして再提訴

しかし1980年、エリカと18歳になった彼女の娘はポールを再び提訴、同年12月21日付のイギリスのサンデー・ピープル紙が、ポールとエリカの関係、ポールが養育費としてエリカ側に6万マルク以上払っていたことをセンセーショナルに報道しました。

ちなみにポールの隠し子説は1984年に行われた血液検査の結果、ポールが父親ではないことが証明されました。

しかしその検査の際にポールが不正を働いたということで、エリカ側はその後も不服を訴えていたと伝えられています。

つまり

  • ポールは自分の子ではないという主張
  • エリカはポールの子だという主張

このような状態が続いていたのです

時効となった隠し子説

結局、ポールの隠し子説は否定されたまま2007年に時効を迎え、ドイツ検察当局は捜査を打ち切りました。この話が蒸し返されることは今後ないでしょう。

しかし、ビートルズがかつて西ドイツ公演を不自然に避けていたようにも思え、何か後ろめたいことがあったのではないかと疑ってしまいます。

ストリップ小屋を改造した華やかとは言えないステージであろうと、若い彼等が毎晩のように派手なパフォーマンスをしていたら当然モテていたでしょう。メンバーのスチュアート・サトクリフとアストリッド・キルヒャーのように、地元の女性と親密な関係になったとしてもそれほど驚くことではありません。

もし、本当に隠し子がいたのであれば、せめて誠意を示すべきでした。

ポールがエリカ側の主張をねじ伏せ、血液検査もごまかしたのだとしたら、彼が作った数々のラブ・ソングがデタラメに聞こえてしまいますから。

もちろん、そんなことは無かったと信じています。

フィリピン公演で命を狙われたビートルズ

フィリピン公演事件の概要

1966年7月4日、フィリピンで10万人を前にして行ったコンサートで大成功を収めたビートルズは、その日以降とんでもない事態に巻き込まれてしまいました。

その日のコンサートの後には大統領夫人イメルダ・マルコスのパーティが開催されることになっていましたが、そこに招待していたはずのビートルズのメンバーは姿を現しませんでした。

当時のマルコス政権は国民から絶大な支持を受けていたので、国家元首を侮辱されたとしてフィリピン全土がビートルズの敵に回り、彼等は命を狙われることになったのです。

フィリピン国内で始まった反ビートルズ・キャンペーン

フィリピン国内で急に始まった反ビートルズ・キャンペーンに、何が起きたかわからないままビートルズのメンバーや同行していたスタッフ達は出国するためにマニラ空港に向かいました。

空港までの警備はボイコットされ、沿道の市民からは罵声やブーイングが飛び交っていました。

フィリピンから命懸けの脱出劇

空港に到着すると暴徒の襲撃を受け、ロビーを追い回される羽目になりました。敢え無く捕まりボコボコにされた者もいて、ブライアン・エプスタインは流血していたと言われています。

空港職員にも政府の手が回っていたので、搭乗手続きにも便宜が図られず、ビートルズのメンバーは一般客と同様に扱われました。この時は誰しもが命の危険を感じていたそうです。ピストルを持った警官もいたので、いつ自分達に銃口が向けられても不思議ではない状況だったのでしょう。 やっとの思いで飛行機に搭乗すると、今度は飛行機が離陸しません。離陸許可が下りなかったからです。当局側の要請に応じてコンサートの収益を差し出したことで飛行機はやっと飛び立つことができました。

フィリピン公演事件の真相

ビートルズは国王や政府の公式行事には出席しないことにしており、イメルダ夫人からの招待についても同様の対応をしました。もちろんパーティ当日ではなく事前にお断りの連絡をしていたそうです。つまりビートルズ側はパーティをすっぽかしたのではなく、パーティに出席する予定は最初からなかったのです。

しかし現地のプロモーターが「招待を断ることなどあり得ない」とビートルズ側に対して執拗に交渉を続け、大統領夫人側には欠席の意向を伝えていませんでした。

真相を知らないイメルダ夫人は、ビートルズが自分のパーティをドタキャンしたと思い込んで激怒、さらにはビートルズが勝手に約束を破ったと新聞各社を使って報道させたため、国民が暴徒と化してしまいました。

ビートルズの無実は無事証明

幸いにもビートルズのメンバーに怪我はありませんでしたが、本当に恐ろしい思いをしたことでしょう。

帰国後のインタビューでリンゴは「フィリピンなんて大嫌いだ」と語り、他のメンバー達も「あんな国には二度と行きたくない」と口を揃えました。命が狙われたのですから当然でしょうね。

この事件の真相である、現地プロモーターの不手際は1986年のマルコス大統領失脚後に明らかになり、ビートルズの無実は証明されました。

空港では群衆に命を狙われ、コンサート収益まで没収されてしまったビートルズとスタッフ達がこの事件の被害者ですが、一番悲しい思いをしたのはフィリピン国内のビートルズ・ファンだったでしょう。

ポール・マッカートニー死亡説

ビートルズの都市伝説として最も有名なのは、やっぱりポールの死亡説ですね。

コアなビートルズ・フリークだけでなく、メディアも巻き込んで大騒動になったと言われています。当時は手掛かりを見付けるために、ポールが死んだとされる1966年以降に発売されたレコードは逆回転で再生され、アルバム・ジャケットはあらゆる角度から調べられました。

こうして見つかった数々の根拠の中から一部を挙げながら、ポールの死亡説の全貌に迫ってみます。

ポール死亡説の発端

1969年、アメリカ、イリノイ大学の学生新聞「ノーザン・スター」は、ポールは1966年11月9日に自動車事故で死んでいて、現在のポールは替え玉だとする記事を掲載。これだけなら学生の間で話題になって終わったはずですが、後にデトロイトのラジオWKNRがその内容を放送してしまい、その噂は全米だけでなく世界中に広まりました。

その死亡説の証拠を掴もうと世界中でビートルズのレコードの分析が始まりました。

ポール死亡説が浮上した根拠

アルバム“Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band”に記された根拠

・ジャケット写真は、ポールの墓前に集まったものとされ、右下に写っている黄色い花が模った楽器は左利き用のポールのベースを表している。

・見開きジャケットでポールが左腕に付けているバッジの「O.P.D」は、「Officially Pronounced Dead(公式の死亡宣言)」を意味する。

・収録曲“She’s Leaving Home”の歌詞にある“Wednesday morning at five o’clock, as the day begins(水曜日の朝5時、1日の始まり)”は、ポールが亡くなった時刻を示している。

・収録曲“A Day In The Life”の歌詞には、“He blew his mind out in a car

(彼は車の中で正気を失って)”“He didn’t notice that the lights had changed(彼は信号が変わったことに気付かなかった)”とあり、ポールの事故の様子を物語っている。

アルバム“Magical Mystery Tour”に記された根拠

・ジャケット写真の黒い動物は、北欧で死を意味するセイウチで、後にジョンが“Glass onion”の中で、“The walrus was Paul(セイウチはポールだった)”と歌っている。

・見開きジャケットには、胸に黒い薔薇を付けているポールの写真がある。

・ポールが亡くなったとされた日から約2週間後にレコーディングされた“Strawberry Fields Forever”のエンディングでは、”I buried Paul”(俺がポールを埋葬した)とジョンが呟いている。

アルバム“The Beatles”に記された根拠

・収録曲“Don’t Pass Me By”の“You were in a car crash and you lost your hair(君は交通事故にあって髪の毛も抜けた)”の歌詞は、ポールが首を切断する大事故に遭ったことをほのめかしていると解釈された。

・”While My Guitar Gently Weeps”の最後で”Paul, Paul”と悲しむように歌っている。

・“McCartney”のつづりが9文字であり、収録曲“Revolution 9”はポールのことを歌っているとされ、逆再生させると“Get me out,get me out(俺を助けてくれ)”と言っている。

アルバム“Abbey Road”に記された根拠

・ジャケット写真のメンバーは葬式の行列で、ジョンレノンが牧師、リンゴスターは葬儀屋、裸足で目をつむっているポールマッカートニーは死者、ジョージハリスンは墓堀人を意味している。

・左利きのポールがジャケット写真では右手にタバコを持っている。

・同じくジャケット写真の左に写っているワーゲン・ビートルのナンバー・プレートが「IF28」となっており、「もしポールが生きていたら28歳」を意味している。

・1曲目の“Come together”の歌詞にある“One and one and one is three(1+1+1=3)”は、ビートルズのメンバーが3人になったことを表す。

ポール死亡説の影響

ラジオ番組では特番が組まれ、タイム誌の記事にもなり、ポールが歌う“Yesterday”と“Hey Jude”の声紋分析もされたそうです。更にはポールを追悼する曲をリリースするアーティストまで現れました。

看過できなくなるほど噂が広がったため、ポールをはじめビートルズ側は本格的に否定し、反論をしましたが、憶測が憶測を呼びなかなか収まりませんでした。 しかし、噂が広まった直後にリリースされた“Abbey Road”はヒットし、その他のビートルズのレコードも飛ぶように売れたそうです。

ポール死亡説の否定

ここで挙げたのは根拠の一部です。この他にもたくさんありますが、よく見つけたもんだと感心します。

何事にも夢中になることは素晴らしいですが、人の死を証明するための調査を続けるモチベーションはどこから沸き起こるのでしょうか?

こうした人達に対してポールは「人にかまっている暇があったら、自分のことをもっと考えるべきだ」と正論を突きつけています。

そもそもポールが事故で亡くなったことを隠ぺいする理由が見当たりません。「ファンを悲しませたくない」との話もありますが説得力に欠けます。

また、交通事故で亡くなったとしたら、医療機関だけでなく警察が関わってきますし、地元の新聞社ぐらいは取材に来るでしょう。何らかの強い権力を使ってこうした関係機関にかん口令を敷くことができたとしても、時が経てば「俺がポールの事故現場にいた」という人が出て来たと考えられます。

噂の出どころは特定できていますし、ポールとしては不愉快だったとしてもレコードの売上に繋がったとすれば、ビートルズ側もある程度は黙認していた、もしくは初めからビートルズが仕組んだジョークだったのかもしれません。

個人的には、ジョンとジョージが亡くなったことも本当は「説」であり、どこかで静かに暮らしていてくれたら…と考えてしまいます。

ジョンのラッキー・ナンバー9

ジョンは自分のラッキー・ナンバーを9だと考えていました。

これは誕生日が10月9日であることが理由だと言われ、アルバム“The Beatles”に収録されている“Revolution 9”や”Let It Be”に収録されている“One After 909”などタイトルに9を含めた作品があります。

しかし、単にラッキー・ナンバーだけにとどまらず、9という数字には不思議な縁があったようです。

ジョンと9の関係

・後の妻となるシンシア・パウエルと出会ったのが1958年9月

ジョンの曲“One After 909”は、Leverpool(9文字) Wavertree(9文字) Newcastle(9文字) Road 9番地の母親の家にいるときに書かれた。

・ビートルズとブライアン・エプスタインが初めて会った日が1961年11月9日

・EMIとレコード契約したのは1962年5月9日

・デビュー曲”Love Me Do”にパーロフォンが付けたレコード・ナンバーはR4949

・アメリカのテレビ番組“エド・サリバン・ショーにビートルズが初出演したのが1964年2月9日

・ジョンとヨーコが初めてであった日は1966年11月9日

・アルバム”Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band”でグラミー賞4部門を獲得したのが1968年3月9日

・結婚後のジョンとヨーコの名前はJohn Ono LennonとYoko Ono Lennonで、”O”の文字が9つ入っている。

・ソロ・アルバム”Imagine”がアメリカでリリースされたのが1971年9月9日

・ジョンとヨーコの間に生まれたショーンの誕生日は1975年10月9日

・ニューヨークに移り住んだのが1971年9月、以後、亡くなるまで9年間暮らした。

ジョンの最期は8日、9日過ぎれば運命は変わっていたか

自分の作品名に9を入れることは、自分の意思でどうにでもできます。

また10日に1回は9の付く日があるので、偶然、その日に何か起きても不思議ではありません。

しかし、彼の人生を大きく変えるような出来事にこれだけ9が絡んでいると、このラッキー・ナンバーには本当に運命を変える神秘的な力があるように感じてしまいます。

ジョンが亡くなったのは1980年12月8日の午後11時過ぎでした。

もう少しでジョンの運命を変えられる“9日”になっていたと思うと本当に悔やまれます。

ビートルズは世界的陰謀計画によって生み出された説

ただの田舎の不良が人気になった謎

ビートルズの数々の名曲は彼等が自ら作り、彼等が演奏しました。これはわざわざ述べる必要がないことは十分承知しています。

しかし、片田舎の不良グループだったビートルズが、デビュー直後からあれほどスムーズに世界中を熱狂させたことは不思議ではあります。

「ブライアン・エプスタインの売り込み戦略が良かった」「ジョージ・マーティンの才能」もしくは「そういう時代だったから運が良かった」などの様々な見解があるかもしれません。

しかし一方では、ある秘密結社が世界中の人々を洗脳するために、ビートルズに曲を作って与え、彼等を人気者に仕立て上げたとする説があります。

ここでは彼等を成功に導いたとされる1つの都市伝説をご紹介します。

音楽の力に着目した秘密結社「300人委員会」

音楽を構成するメロディやリズムによって、人間にはあらゆる感情が生み出されると言います。音楽は人間の性格にも影響を与えると言われ、憂鬱にさせたり、優柔不断にさせたり、自制心を高めたり、陽気にさせたりします。音楽を聴いて悲しくなったり、楽しい気分になった経験は誰でもあるでしょう。

ビートルズの曲も同じで、例えば“Twist And Shout”を聞いて気分が高揚したり、“Yesterday”の美しく切ないメロディに心が揺さぶられることは別に奇妙なことではありません。

こうした音楽の力に着目した秘密結社がありました。その組織の名は「300人委員会」。

以下の説は、元MI6の将校でアメリカに帰化したジョン・コールマン博士によるものです。

歴史の陰で暗躍する300人委員会

300人委員会とは、17世紀から19世紀までアジアの交易に従事した東インド会社を起源で、それが解散後に活動を始めたとされる秘密結社です。

ヨーロッパの王室、教会、貴族、政財界の権力者らによる300人のメンバーで構成され、各国政府、国際企業、金融機関、マスメディアなどを裏で操っていると言われています。

イルミナティやフリーメイソンもその傘下に置き、戦争、革命、災害そして暗殺など世界を揺るがす大事件を引き起こしてきました。

その目的は、300人委員会を頂点とする新世界秩序の実現。

陰謀に巻き込まれた無名バンド

音楽の力に着目した300人委員会は、その下部組織で人間を操作する研究を行うタヴィストック人間関係研究所に、人間の感情を破壊し、自制心と政治への関心を失わせるための音楽を生み出すように命じました。

タヴィストックは、ドイツの哲学者で音楽評論家のテオドール・アドルノを開発に当たらせ、無調12音技法音楽を作り出しました。この音楽は大衆でも理解でき、聞いた者の心を破壊するものでした。次はこの音楽を簡単に世界に広めるための方法を作らなければなりません。

ちょうどその頃、イギリスの田舎やハンブルグで演奏するジョニー&ザ・ムーンドッグスというロック・バンドがいました。タヴィストックは彼等に接近し、アドルノが作った楽曲を全て提供しました。そして古代エジプトのカルト宗教のシンボルである“Beetle”にあやかり、バンド名をBeatlesと命名しました。

そのバンドのメンバーは楽譜が読めず、コードも知らなかったので、タヴィストックが徹底的に演奏技術を教え込んだことでメンバーの音楽知識や演奏力は格段に進歩したそうです。

陰謀を成功させてしまったビートルズ

ビートルズがイギリスでデビューすると瞬く間に人気者になりました。アドルノが作った曲が大衆に受け入れられ、300人委員会が支配下に置くテレビ、ラジオなどのメディアが大々的に宣伝したからです。

アメリカではタヴィストックの研究に協力的だったとされるエド・サリヴァンがビートルズを売り出しました。

こうしてイギリスから始まったビートルズ旋風は、熱病のようにアメリカで猛威を振るい、やがて世界へと広がっていきました。

ビートルズは300人委員会の思惑通りに、アドルノとタヴィストックが作った“悪魔的な音楽“で人々の感情を破壊し、自制心と責任を忘れさせることに成功したのです。

しかし、1969年にアドルノが亡くなったことでビートルズに新曲が供給されなくなると、ビートルズは解散に向かいます。

そして悲劇へ

ビートルズの解散後にソロ活動を始めたジョンは、反体制運動、反戦活動を行いながら愛や平和を歌い出しました。

既にスーパースターであったジョンの影響力は絶大で、彼のメッセージは世界中の人々の心を打ち、熱病を抑えるワクチンのように作用し始めました。

こうしたジョンの言動は300人委員会の意向にそぐわなかったことから、スタンリー・フォード・リサーチセンター(SRC)やFBIを使い、ジョンの抹殺を計画しました。

タヴィストック人間関係研究所とSRCは、ジョンの狂信者であるマーク・デービット・チャップマンに近付き、逆洗脳を行いました。それは、ビートルズの全ての楽曲はアドルノとタヴィストックが作り出したもので、「ジョンは愛や平和を歌いながらも陰では莫大な資産を持った体制側の人間、世界はジョンに騙されている」というものでした。

「ジョンは偽善者」だと信じ込み、怒りに震えたチャップマンは38口径の拳銃を携えダコタハウスに向かいました。

本当に陰謀だったのか?

コールマン博士は長年に渡って300人委員会の陰謀を暴露し続け、著書「300人委員会 上支配される世界」の中で、「ジョン・レノンが殺されたのは、アドルノとタヴィストックの計画に公然と反旗を翻したため」と述べています。

ビートルズの曲はメンバーではなく部外者が作ったもの?ビートルズを使って世界を洗脳しようとした?計画を裏切ったからジョンが暗殺された?300人委員会という組織が現実にあるのかは別として、どれも信じがたい話です。

タヴィストック人間関係研究所やテオドール・アドルノはどちらも実在するものですが、コールマン博士の説には辻褄が合わない点もあります。

・タヴィストックに演奏技術を教え込まれたとされるジョニー&ザ・ムーンドッグスの当時のドラマーはピート・ベストでしたが、後にリンゴに替わっています。ピートも他のメンバーと同じようにタヴィストックから訓練を受けていたとしたら演奏力が向上していたはずですが、彼には余程才能が無かったのでしょうか?

・バンドをクビになったピートは、タヴィストックと関わりを持つビートルズの秘密を誰にも打ち明けなかったのでしょうか?

・ピートの後に加入したリンゴは、タヴィストックと直接関わりが無いのに陰謀に加担したのでしょうか?

・不採用となったデッカ・オーディションでは、アドルノが作った“悪魔的な音楽“とやらをなぜ演奏しなかったのでしょうか?

・アメリカで1963年2月にレコード・デビューを果たすも、なぜ1年程度もヒットしなかったのでしょうか?

・ビートルズと知り合う前からプロデューサーをしていたジョージ・マーティンは、少なくともデビュー後の一定の時期までは、ビートルズの演奏やオリジナル曲に対して強く意見を言える立場であり、“悪魔的な音楽”を書き換えてしまうことはなかったのでしょうか?

・解散後のジョンの活動の中で反体制運動だけは、300人委員会が目指すものとそれほど違うとは思えません。ジョンの影響力を利用した方が300人委員会の目的達成のために役立ったのではないでしょうか?

・陰謀を遂行できる力を持つ300人委員会が実在したとして、その秘密を暴こうとするコールマン博士自身が命を狙われていないことも不思議です。

本当にただの都市伝説なのか?

コールマン博士の説には様々な疑問がある一方で、ビートルズの他の都市伝説と関連性はないのでしょうか?

ビートルズを一目見て生涯を棒に振りかねないマネージメント契約をしたブライアン・エプスタインの決断は不自然に思えます。レイモンド・ジョーンズはブライアンに決断を迫るために送り込まれたのでしょうか?それともブライアン自身が300人委員会の回し者?

ビートルズのメンバーの中で最も合理的な思考を持っていたと思われるポールの死亡説については、彼がいち早く陰謀に気付いたために1966年に抹殺され、300人委員会が権力を使って死亡した事実を隠蔽、更に300人委員会が新たに送り込んだ「二代目」ポールがその後のビートルズを仕切っていたのだとしたら…

と、いろいろ妄想を膨らませることもビートルズを楽しむ方法の1つですけどね。

ビートルズの都市伝説や謎まとめ

いかがでしたでしょう?

関係者の証言や膨大な記録を調べることで真相が明らかになった話もありますが、解明のしようがないエピソードは正に都市伝説と言えるでしょう。

こうした神秘的な部分もビートルズの魅力の一つなのかもしれませんね。

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